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王のつぶやき


by kingsmurmur
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ライヴ アット 吉祥寺
その夜は「body gulu」から始まった。静かなイントロの曲。
そして「完璧なキャンディ」で火がつく。
つづく重いグルーヴの「共産主義の声がきこえる」
どうだどうだどうだ。
「アタラシイ東京」あたりからはよく覚えていない。

まぁ僕はいつもの平常心(?)とその裏の静かな情熱でガシガシやった。
ここんとこの風邪が治らず鼻水がたれるのにはまいった。必死にすすった。

マキルんがグラサンを後ろにけったのを見ながら、行きの電車で思い付いてやろうと思ってたことを忘れた。

キッキのドラムとマキルズギターがあまりにパワフルなので、ジョニーで僕が勝手に入れた「Man On The Silver Mountain」のフレーズは聞こえなかった失敗。アタラシイ東京でやればよかった。

ベース一回転まわしをやろうかとマイクスタンドを向こうへ押しやったけど、危ないかなとやめた。中途半端だった。まだおニュウのベースなもんで。


そして僕はいろいろと課題も感じた。いろいろと感じやすい年頃なのだ。それはユリゲの問題なのでスタジオででも。最後の2曲は特に満足いかなかった。


ライヴハウスの人たち数人に「(このバンドは)長いんですか」と聞かれたので「いえ」とか「ええ」とかそのつど変えて答えてみた。「あってますよね~」と言われたが、その人は入口でチケット切ってる人だった。聴いてたのか? ほんと?



と、いうことでライブも終わり、打ち上げは「さくら水産」。「さくら~」はあちこちにあるのは知ってるが入るのははじめて。はなの舞やわんにはおとるな。

そこで相変わらず借りて来た猫のようになりながらひかえめに飲んだ。まだ横浜に捨ててきてしまった車をとりに行こうかとの思惑を持っていた(結局断念した)。

こあらさんちのレディ・マドンナもしくはレディ・ヒーリング楓ちゃんにユリゲTシャツをプレゼント、あとの4枚は売る予定。


そうそう途中で艶子嬢と電話会見を果たしたが、彼女は酔っているのか話がかみ合わなかった。なんちてライブ後の僕とかみ合う人はいないのだ。見にくればいいのに。


そして帰りついたら午前様、吉祥寺遠いなぁ、ベース重いなぁ、でもまたあそこでやりたいなぁ。


来てくれた方々ありがとうございます。特にやさn!とても遠くからありがとー。しかもお土産までもらっちゃって。感激だった。

まことさん、モーヌさん、那津さん、ろくに挨拶もできずにごめんなさい。今度はじっくりまったり。また。

ながしろさんいつもどうも。今回ものりのりだったそうで、そうだよね、そうじゃなきゃ。

こあら親娘さん。ありがとうございました。もう一人、娘がいらっしゃるそうで、今度は来なよね!Tシャツあげるからぁ。ユリゲはチェックしとかないと学校で乗り遅れるゾ。

レイ君写真どうも。突然ごめんね。そうそう写真は(ほとんどは)レイ君ことRHYE君撮影です。

ということで、なんだ、あれだ、今日は疲れている。
# by kingsmurmur | 2006-10-28 15:44

日記

もし外へでていくことが自立だと考えてるとしたら、それは大きなまちがいだ。よく言うように親はいくつになっても親であるし、離れても親であるから。
たぶん外へ出たいのは別の欲求や別の成長であり、それをただ自立のためだと言うのは安易で危険だ。

ほんとうにそう信じているなら、離れてもちっとも自立したことにならない事に愕然とするだろう。
自立とは物理的な問題ではなく、精神的踏ん切りなのだと気付かないと、離れてもだめなら次は親という存在を消すしかない、となるだろう。
最近の凄惨な事件はまさにその安易さ(ゲームワールド、もしくはバーチャル混交)によるもののような気がしてならない。

こんなとこにひっそりと書いてるのは、余計なことかもしれないし、うざっとか思われなくないから。
十分うざっ。
# by kingsmurmur | 2006-10-26 22:39

the creed

”銃を持ったら撃つしかないだろう”
the creed




僕はある女性の影響もあって、キリスト哲学的な考えがあるかもしれない。
信者ではこれっぽっちもなくて、だからやはり中途半端なのかもしれないけど。

運命論に基づき、では僕らはその道をいかにして歩くことができるか。
運命の道は”よき道”であるが、人は必ず迷いそして多くの場合誤る。
しかし悪魔はその名のように”悪”なのではなく、それは己の一部であり、ちゃんと耳を傾ければよきアドバイサーだしパートナーである。
だけど、思考を預け放棄したり、うろ聞きで勝手に安易な解釈に飛び乗れば、それはすなわちコース外へ落ちてしまう。

こんな考えに僕は共感する。つまり運命結果論じゃなくて運命進行論、もしくは運命まっとう論。
まっとうせよ。他者まかせではなく、自らの足と頭で行けよと。

そこへ奇跡やオカルトが入り込むとついていけなくなるけどね。
理解を促すために、トリックは有効かもしれないし、宣伝効果としても強いだろうけど鼻白んでしまう。
それと全てを”愛の元に”、となると少し照れくさくなってしまうし、かゆくなってしまうかな。




”信仰で死にそう”
the creed



とは言っても僕もオーメンを信じる。怖いやつじゃないぞ、ダミアンちゃんじゃない。
前兆を意識している。それはオカルトじゃなく、きっかけ探しだ。

例えばこないだ同じ日に同音異口に4人に言われたフレーズだ。
「行くも行かぬもあなたの自由だが、何もしないのはよくない」
と、だいたいそんな意味のことを言われ、この「自由」という単語は4人とも使っていた。それは最近はやりの「自由だっ!!×××フリ~ダム」の影響かもしれないが。
その4人は、ばらばらな関係の方で、その意味合いも人生のアドバイスだったり軽口だったりで様ざまだったんだけど、一日で繰り返されると「あれ?」と思うじゃないか。「さっきも言われたな・・」
で、思うわけですよ。「そうかやはり僕は先送りしてたな。今が決断の時なんだな」と。そして行くか行かないか(その時は続けるか手仕舞うか、だった)決断することは僕の自由だと。しがらみなどないと。いやあるけど、本質ではないんだしがらみなど。


それとかこれは今日の話だけど、最近僕が口癖のようにぶつくさ言ってる言葉とおんなじようなのが、たまたま入った蕎麦屋のカレンダーに書かれてたり(しかも松下幸之助の言葉だったよ!)
「プロとはそれで食える人。極めた人でもほめられた人でもない」


こんなことはよくあることで、そして不思議なことじゃない。
そのときに気にしてること、心のどこかにあるのだけど目を背けているとか気づいていないこと、を連想させる事象に目がいくってことだろう。


ただそれを前兆と捉えることが大事だ。それを簡単に受け流して、深く考えようとしなかったり、目をそらし続けたり、後で考えようと先延ばしにしたり。それじゃ何も始まらない。停滞は止まらない。

それが現れたとき僕はきっかけにしたい。考えるきっかけ。思考するのだ。


何もかも投げ出して一心に祈れば救われるとか、何が悪で何が善であるかを示してもらおうとか、この世はだめだから来世に期待しようとか、そんなんじゃない。だめだだめだ。



必要なのは、僕やあなたを救うのは、信仰じゃなくて思考なのだ。


たぶん。
# by kingsmurmur | 2006-10-01 00:46
土曜はスペースノ○ドの「スタ○レーの魔女」を観劇にいった。
伏字は検索されて関係者やファンに不興を買わないように小心者の知恵だ。


オカザキタツオが出演するというので、チキュウの裏側の池袋くんだりまでいったのだよ。
彼の劇を観るのは「月面喜劇」以来2作めだ、いや、のはずたった。

今回のはあの松本レイジ原作だ。そうあのスリーセブンの。いや999。777じゃBIG確定だもんねえ(何の話しか)



舞台は飛行機の残骸が散らばる最前線の海軍駐屯地。
落ちこぼれの飛行機乗りがだらだらとたむろしている。それもそのはず、もはや動く飛行機も少なく、落ちこぼれ達に扱わせる機などないのだ。それでうつうつとして陸地で油を売っているというわけだ。

敵地とこの地の間にはスタンレー山脈がそびえ、簡単には越せない。飛行機乗りが畏怖をこめて「スタンレーの魔女」について語る。スタンレー越えを目指して越えられず散った飛行機乗り(名前はハーロック!)の本の話しを語る。



演者はどの人も好感だった。台詞回しとかはっきりしてるし上手いなと思った。とくに操縦士の本の虫がよかった。


観てる内に突然、ああ、この原作読んだことあるな、もちろん全然違うけど読んだことある、と思い出す(新谷かおるの似たようなシリーズだったかもしれない)。

それで思ったことは、なんで松本御大の作品をとりあげたのかなぁということ。御大の作品はどれも人間のハカナサや運命や大いなるロマンを感じさせ、まさに宮沢賢治の流れだと思うのだけれど、劇ではそこはあまり感じなかった。特に「ロマン」が伝わりづらかったんじゃないかな。

最後のクライマックスで松本御大の作品を踏襲するならば、どうしても前半部分がちぐはぐ感というか、いらないのではないかとさえ思った。
もちろんクライマックスにむけてのストーリィはいる、クライマックスにならないもんな。それと登場人物個々のキャラクター説明も必要だ。
しかし劇ではそのキャラ分けはあったけど、感情移入させる持って行き方じゃなかった。
なぜならまさに”劇”的な笑いの要素が強かったからだと思う。

いろいろな人生模様が垣間見えたが、全て笑いのペーストで上塗りされている。それは前線でありながらのんびりした空気を見せるためでもあるけれど、ひとときのシャングリラにもっと現実の悲哀とか、激しいロマンとかが出ないとあのクライマックスまでは行けないのではないか。仲間が死んでいくなかで、落ちこぼれでお国ためになれない鬱屈とか、酒のみの小隊長の酒を浴びる理由であろう知られざる過去とか、登場人物がみな笑いいかないで、一人ふたりはとことんシリアスであるとか(いやとことんやるとやはりお笑いになってしまうかもしれない罠)、もっとロマンを盛り上げて飛ぶ意義をというか男意気を感じたかった。

零戦のりが落ちこぼれの鬱屈を顕していたが、ただの異端児になってしまい(彼こそ代弁者なのに)、笑いがやはり強くて中途半端だったと思う。

じゃあ面白くなかったかと言えばそうじゃなく、戦場を舞台にしてるけど戦争関係ない喜劇的ファンタジーとみればいい味だしてるキャラが多かった。四角い顔とか下痢なハゲとかね。それぞれは面白かったし、そっちのほうがよかった。

しかし、するとやはりあのクライマックスはいらない。みんなでボロをかき集めて爆撃機を組み立て、それに乗り込むところ、あそこで終わりにしよう(実際僕はあれで仕舞いかと思った)。
え?それじゃスタンレー出てこない?そんじゃこうしよう、飛行機の中の軽快な掛け合いそのままに「んじ飛びまーす」「大人じゃないっ」とか言いながら飛び降りてくの。
それならあの雰囲気のまま悲哀のペーストもほんのり乗せられたんじゃない?

浮世離れからいきなり現実やロマン&悲劇に落とすには、前半が長かっただけに零戦2機の体当たりの奮闘だけじゃ弱かった気がします。
それと感じたのは、これはいつも劇をみると感じるんだけど、どうしても皆おなじ勢いで前へでて、笑いも似てしまうため、折角背景を説明してもどのキャラが同じふうに見えてしまう。
これは舞台用の発声のせいかもしれないし、出演者誰もが脚本のセンスというかツボ通りになってしまうからかもしれなく、仕方ないのかな。仕方ないってないよね。
とはいえこの劇は比較的キャラが描かれていたとは思いますが。



松本御大の描く、飛行気乗りのロマンとそれに共感する男たち(スタンレー山脈を越えれるよう機体を軽くするため飛び降りる男たち)のロマン、もしくは敵の戦闘機乗りのロマンが、どうにも薄く共感できなかった。
いやこれがロマンを主題としてなくて、群像喜劇としてやるならわざわざ松本御大の作品じゃなくてもよかったかなぁと最初に戻るのです。
残念、魔女が笑っている姿は浮かばなかった。戦争戦争してなかったのは松本レイジぽかったけどね。




ちなみに、今回オカザキタツオ氏は直前にこの劇に出れなくなり制作助手という肩書きでした。おい。でも出るとこなかったな。これ以上登場人物はいらないものな。
どことなく「月面喜劇」につながるテイストであった。手法とかも共通項が見えたけれど演劇では常套手段なのかなぁ。
あれがオカザキ臭なのかそれとも「月面喜劇」がこういう影響下で作られたのかまではわからなかった。

なんか辛口に感じちゃうけど、面白かったよ。気になる部分だけ書いたから辛口(っぽく)なった。←ね、小心者でしょ。
なんだかんだ書きましたが僕は観劇のプロじゃないので勝手なこといってます。でも3000円分くらい書いてもいいだろぉ?
# by kingsmurmur | 2006-09-26 12:26

日本沈没

こないだ映画館で「日本沈没」を見てきて書こうかと思ってて随分たってしまって、すっかり薄れてしまったよ。

最初から期待はしてなかった。なんて、なんて上から。。
でもストーリーは本を読んでるし、読んでなくてもわかるだろうし、特撮が凄いのはもうわかったわかったって感じだし、草剪くんだし、リメイクに良作なしだし、何を期待しろと?
この手の映画は期待して見に行くもんじゃない。

んじゃ何故見に行った!て言われれば、僕はモノゴコロ付いた時から小松左京にやられていたし、だったらよけい観にいかないほうがって、いや「日本沈没」だけはいかねばなるまい。いかねばならないんだよ。
なぜなら「日本沈没」は小学生のころ読んで、その衝撃はいつまでも繰り返し夢として出たほど。なんて言うんだろ、ひとつの映像として染み付いた。

富士山を眺めれば噴火する姿が浮かぶし、修学旅行で行った日光や京都・奈良でもオーバーラップするものがあった。それは現実感を伴ったものではなかったので、恐いとか悲しいとかは感じずファンタジィとしてずっと僕に取り付いた。
そこに一緒に日本と沈んでいくという、いかにも殉死的なところも幼き僕に感銘させるところがあったのか。
今も日本の、この大地と沈むということは僕を引き付けていて、殉ずるというのに反応してしまうのはやはり東洋人だからか。

で、映画なんだけれど迫力はあった。案外よかった。主人公とヒロイン以外は。
以下ネタばれあり。こころせよ。


とくに前半のよく知った風景が崩壊していくシーンは、どのパニック映画よりも見た目のリアリティは強くはらはらする。前半のドキュメンタリー風なのもよかったと思う。

そして後半、いよいよ日本は沈没してしまうのかというところだけれど、うーーんいきなり失速だ。
完璧に「アルマゲドン」になってしまった。ブルースウィルスの。
特に草剪くんと柴崎ちゃんのラブストーリーは本当にいらなかった。余計な話は入れないほうがこの場合いいと思うよ。たんたんと被災の風景を写し、刻一刻と進行していく災害をあらわせば、十分想像力を働かせ感情移入させられるだろうに。つまり映像的にはリアリティ満載、迫力!なのだがストーリィが取ってつけでまずいんだ。

脚本が悪いということか、それじゃ映画としては最悪じゃんとなるところだが、最近の大雨災害などの印象もあってそれを補う天変地異へのリアリティがあった。だから被災の状況を頭の中で補完できるのだな。それで引き込まれる。


問題としては小松左京の書いた「日本沈没」とはまったく違う話だということだ。
なんせ日本が沈まない!原作は沈むことによって日本人のアイディンティティを浮き彫りにするのが主題で、感傷よりも深い話だったと思うのだが、そこのところはすっぽりと・・日本の象徴である冨士山すら噴火しないんだもの。日本版アルマゲドンのそしりは逃れられない。

原作では国土を失っても島国日本人はユダヤ人のようでいられるかということだった、そしてそれはリメイク前の藤岡弘バージョンでは忠実だった。今回は原作、旧作とは全く違う話と思ったほうがいい。



違う話としてみれば日本版ハリウッド映画としては手に汗を握るものがあって、こういう映画はありだと思う。だからといって恋愛はいらねぇんだよ。

リメイク前の作品は田所博士を小林桂樹がやっていてとても印象的だったのだが、今回は豊川悦司。今風アレンジというかエキセントリックすぎる感もあったがまあいいか。
そのほか石坂浩二(総理大臣)や大地真央(こんな役も原作にはなかった)、あとミッチーなど脇を固める面々がよかったんじゃないか。それこそヒーローとヒロインいらないくらい。

さいしょから超大作とうたわれてて、しかもリメイクで良かったためしは無いのが通説だが、今回のこの作品は見てもいいんじゃない。
でももう一度いう。小松左京の原作で期待してみないように。違う話だから。

「戦国自衛隊」のリメイクが僕の劇場鑑賞歴最大の汚点だっただけに、意外だった。なんか得した。

☆3つ
# by kingsmurmur | 2006-08-06 00:19